おすすめスポット⑤加治屋町

著名人たちの生誕の地が点在する加治屋町。数歩歩けば、誰かの生誕地にぶつかります。
歴史の背景を感じながら、周辺を散策するのも良いでしょう。

加治屋町で生まれ育った偉人たち

★西郷 隆盛(さいごう たかもり)
(1827年~1877年)

NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公。明治維新最大の功労者。薩摩藩の下級武士であったが、島津家28代当主斉彬の目にとまり抜擢される。徳川家に輿入れする篤姫の婚礼道具を揃えるという大きなお役目をもらって奔走している場面は、いろんなドラマで再現されています。ただ、突然の斉彬の死で失脚。2度の島流しを体験する。その後、藩政の中核として活躍し、維新の原動力となった。新政府では参議・陸軍大将・近衛都督に就任するものの、征韓論で破れ鹿児島に帰る。最期は西南戦争にて没。
幕末から「写真」なるものが発達し、多くの偉人の写真が残っています。西郷さんの写真(版画)は教科書にも掲載されているので多くの日本人の知るところだと思いますが、実はこの写真、実物ではないと言われております。どうやら撮影されるのがお嫌だったようです。多くのドラマ、映画、書籍などで登場する西郷さん。多くの名俳優たちが熱演されているので、勝手に俳優のイメージと重ねたりしておりますが、個人的に一番しっくりくるのは、西田敏行さんです。 以下版画は、ウィキペディアより。ちゃんと注釈に「西郷の親戚を参考に想像で描写」と書いてありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B

★大久保 利通(おおくぼ としみち)
(1830年~1878年)

西郷さんと並ぶ有名人。西郷さんとは盟友とも言える間柄で、ドラマや映画には、必ず2人セットで出てきます。下級武士として生まれた大久保さんは、もともと体が弱かったため武術は得意ではなかったようですが、討論や読書においては、同世代の中でもズバ抜けていたと言われています。
17歳の時、記録所書役助と出仕しますが、お由羅騒動で父と一緒に謹慎処分を受けます。その後、新しい藩主となった島津斉彬により謹慎が解かれ、記録所に復職して御蔵役となります。その後は、誰もが目をみはるスピード出世!斉彬の急死後、島津久光の治世になりましたが、そこでも政治手腕を発揮。西郷さんは最後まで久光とは馬が合わないというか険悪な関係だったようですが、大久保さんはうまくやっていたようです。橋渡し役とかもしなければならず、しょっちゅう板挟みになっていたのだろうと思います・・・。
明治政府では、参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などを手がけ日本近代化の土台を作っていきました。明治4年、岩倉使節団の副使として外遊するも、その間に西郷が主張する征韓論が過熱。外遊から戻ってすぐに対立し、西郷らを失脚させました。盟友と決別の時です。盟友として死ぬ思いで成し遂げた維新。もう2人は個人として付き合える同士ではなく、多くの人、国を背負う人間以上の「何か」になっていたのです。
明治10年、西南戦争で西郷さんが亡くなりますが、そのすぐあと明治11年、大久保さんもあとを追うように暗殺されてしまいました。享年49歳。

★西郷 従道(さいごう じゅうどう)
(1843年~1902年)

西郷隆盛の実の弟で、西郷家の三男。隆盛とは、15年の年齢差があり、ほとんど親子といえるような兄弟関係だと言えます。血の気の多い青年だったようで、薩英戦争では決死隊に志願。また、戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いで重傷を負うなど、積極的に活動していました。
維新後の新政府では、太政官を務めることになります。その後、陸軍少将になりますが、隆盛が掲げる「征韓論」で対立してしまいます。このとき、薩摩藩出身の多くの人々が隆盛に従って帰郷することになるのですが、従道は隆盛から新政府に残るよう指示され、東京に居続けます。そして、明治10年の西南戦争では兄を賊軍として追討するという尋常この上なき悲劇を味わうことになります。
明治10年に兄・隆盛を失い、翌年、大久保を失うと同年、陸軍卿となり、薩摩閥の重鎮として手腕を発揮します。その後も、参議・農商務卿、開拓使長官を務め、また陸軍の出身でありながら、初の初代海軍大臣に就任。数々の重責を負うわけですが、最後は、病気で亡くなりました。
ちなみに、NHK大河ドラマ「西郷どん」の役は、錦戸 亮さんが演じていますが、この人選は意外でした。
以下写真は、NHK 大河ドラマサイトより。錦戸 亮さん演じる西郷従道です。
https://www.nhk.or.jp/segodon/cast/saigo_judo.html

★村田 新八(むらた しんぱち)
(1836年~1877年)

西郷隆盛より9才年下。幼い頃は、西郷隆盛より指導を受けていたそうです。維新後は、西郷の推挙によって宮内大丞に就任。また岩倉遣外使節に随行して欧米をまわりました。維新前の1866年にも長州藩の伊藤博文らとともに上海を訪問しており、その豊富な海外経験は重宝されたと言われています。ただ帰国後は、その経験と能力を発揮する間もなく、征韓論に破れた西郷隆盛に従い鹿児島に帰郷。その後、西南戦争で最後まで戦って死ぬことになります。鹿児島の城山に追いつめられたとき、隆盛を説得したのが新八だったようです。
村田新八は、勝海舟から「大久保に次ぐ傑物」との評価を得、大久保も次代の宰相に相応しい人物と期待していた人物でした。大久保が、征韓論の政戦による人材流出でもっともショックを受けたのは村田新八であったと言っていたそうです。
以下写真は、ウィキペディアより。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%85%AB

★東郷 平八郎(とうごう へいはちろう)
(1847年~1934年)

海軍大将、連合艦隊司令長官就任。日露戦争の日本海海戦におけるバルチック艦隊を撃破したのはこの方です。当時、世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を破ったことは、世界中で注目されました。維新を成し遂げて間もないアジアの小国が大国ロシアを破ったとあって、一躍世界のヒーローになったのです。司馬遼太郎の「坂の上の雲」に登場する彼は、本当に名指導者です。
彼は多くの名言を残していますが、その一つを紹介。「降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない。しかるに、敵はいまだ前進している。」これは、日露戦争日本海海戦での発言。バルチック艦隊が白旗を振って、投降してきているのだが、船はこちらに向かって前進してきている。前進し続けたため砲撃を続行。国際法にのっとったルールを徹底した砲撃でした。
日本国のみならず、世界中から尊敬されていた東郷は、死後、軍神として国葬で弔われました。東京都渋谷区に「東郷神社」という個人を祀る神社があります。

★山本 権兵衛(やまもと ごんのひょうえ)
(1852年~1933年)

西郷兄弟の同年代の世代で、槍術師範役の子として生れます。薩英戦争,鳥羽・伏見の戦い,戊辰戦争に従軍。新政府では、西郷従道によって、海軍省官房主事に抜擢された山本権兵衛大佐。日露戦争で海軍大臣・海軍大将として活躍します。山本が思う存分手腕を発揮できたのも、有能な部下に仕事を任せて自分は口を出さず、すべての責任は自分が取るという、西郷従道の度量の深さがあってこそだと言われています。現代の上司たちはぜひ見習いたいですね。
西郷従道に才能を見出され活躍した彼自身は、日露戦争において東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢しています。みなさん優秀な方だと思うのですが、軍部が薩摩一色になる理由もこの辺にあるのでしょうね。
日露戦争後は、首相となり、薩摩閥内閣を組織しましたがジーメンス事件で総辞職。二度目の内閣では、関東大震災後の東京復興にあたったが、摂政 (のちの昭和天皇) が狙撃される虎ノ門事件が起り、その責任をとって総辞職しています。
以下写真は、「近代日本人の肖像」サイトより。なかなか男前なおじいちゃんです。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/213.html